A-turn Family Project’s Blog

2020年。東京から秋田県大仙市へ家族で移住。秋田移住(A-turn)の旅へ!

初!下関への帰省と約20年ぶりの母との再会

約5年ぶりの下関への帰省と約20年ぶりの母との再会のお話✍️

居場所づくりや講演、書籍を通していつか自分の経験が誰かの勇気に繋がれば、と思い途絶な地元暮らしについて赤裸々と綴っております😌笑。
私が今回心のケアを学び直したい、それが生きる役割のひとつだと気づいたきっかけのバックグラウンドです。髙梨商店とは全く関係ない個人的な健忘録です。

秋田へ移住してから初めての実家下関への帰省で思い返した実家の記憶について。気になる方だけお付き合いください。

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帰省の目的は、大きく過去の整理と未来へのビジョンづくり。

過去の整理とは、昨年亡くなった母代わりだった祖母のお墓参りと、空き家になってしまっている実家の片付け。そして一昨年に脳出血で全麻痺状態になってしまった母親との20年ぶりの再会。

未来へのビジョンづくりは、シェアハウスに住んでいた20代に出逢った吉武大ちゃんが俵山ビレッジという名のエコビレッジを創っていると知り、何か近いものを感じて魂が呼ばれたから。

タイトに予定を詰め込んでいざ出発🛫
よく「どうやって帰るの?」と聞かれるけれど、今回は仙台空港まで自走🚗→福岡空港まで飛行機✈️→下関までレンタカー🚙という経路にて。

子連れ旅だと、ご飯にも休憩にも時間がかかり、移動で丸一日潰れてしまうので、滞在は実質2日間。

下関に到着し、まずは母の面倒をみていただいている叔父宅へ。
もう下関に残る親族は彼しかいない。父親のように幼い頃から気にかけてもらっていたが、当時男子校の数学教師だった叔父は難しい人に感じてあまり好きではなかった。
そんな叔父も齢70を迎えてすっかり人格が丸くなり、本来の人情深い性格に戻っているように感じる。

我が家は仏教の浄土真宗の信仰が深く、私は「さとり」をひらく子という大変尊い名前を命名いただく。 
しかし、母が浄土真宗に心が奪われてしまったせいか、若い頃は仏教を敬遠していた。

仏壇に向かいおばあちゃんの遺骨に南無阿弥陀仏を唱える。
96歳で老衰で眠るように往生した話を聴く。母や私のことで苦労が絶えなかった祖母が苦しまずに往生できて良かったと思った。
まるで法事の時のように親族の近況を聞いた。

ゆっくり下関に帰ったのは、10年以上ぶりかもしれない。久しぶりに帰った実家の周りの風景は私の育った地元から一変していた。

都市開発が進み、田んぼだった場所には新しい道路と大型ショッピングモールが並び、中学校も移転していた。点々と見覚えのあるお店もあるもののまさに浦島太郎状態。

自分の町ではない感じがして、ここに私の居場所はないなぁ。というような少し寂しい感覚。
秋田の自然豊かな田園風景の方が安心するし、髙梨商店はすっかり心身共に私の居場所になっている。


その後、空家になった実家で最後の写真の整理をした。祖父母の形見を持ち帰る。

その足で母の面会へ。母は昨年脳出血となり生死を彷徨った。麻痺が強く、自力では手が動く程度で、経鼻栄養。耳は聞こえるが視力はほとんどない寝たきり状態だった。意識レベルのアップダウンが激しく、朦朧としている日々もあればはっきり言葉がでる日もあるという。

私たちが逢いに行った2日間は、はっきりとした発語は聞き取れなかったが、存在を理解して手を伸ばしてくれたり涙を浮かべる反応がみられた。

みんなで一生懸命に語りかけたり、私も2人きりの時間に産んでくれてありがとう、と伝えることができ、手を握って目頭が熱くなる。

母の人生を想像すれば、胸がつぶれる思いになり、人間が生きる意味がわからなくなる感覚に襲われる。主人が話を聴いてくれたことでその日は少し楽になった。


正直、実家に良い思い出はほとんどない。
父親は産まれた時からおらず、認知もされていないから誰だかわからない。
母は私の出産を機に精神を患ってしまった。私を出産後、まもなく統合失調症(当時は精神分裂病と呼ばれていた)になった母の話である。

みるみる症状が悪化し、ひきこもりで風呂にも入らず一日中手を洗ったり、幻聴幻覚で仏教の話をブツブツ言っていたり、同居の祖父を毛嫌いして顔を合わせれば発狂したり、気に入らないことがあれば、祖母に暴力を振るったり。
まだまだ恐ろしい記憶しかないけれど幼い私にとっては恐怖や悲しみでしかなかった💦近所の視線も辛かったのを覚えている。

そんな母は娘に異常な執着心があり小学校入学まで軟禁された私。祖父が撮った写真を見ると幽霊のように白い。

私を見えない敵から守ろうと入学式に連れ出した祖父を包丁で刺したりと、あわや昼ドラかと思うような小学生時代のはじまり。

私がしっかりしなければと強く思った。

学校は楽しかったけれど常識がなさすぎる私は対人関係がわからなかったし、劣等感が強かったのを覚えている。友達とはすぐ仲良くなれるほうだったが、合わせるのが苦手で疲れてしまう。ひとり絵や文章を描いたり音楽を聴く時間が好きだった。

その後も母の存在のストレスは凄まじく、祖父は胃潰瘍になり、気付けば癌が全身に転移して、死際に母の名前を呼びながら私が11歳のときに他界。

祖母ひとりでは母の面倒が見れず、母も通院していた精神病院へ入院となる。

以後、昨年の脳出血に至るまで30年近く精神病院で彼女は生活している。成人になってから何回か面会を試みたが、面倒をみる覚悟がないならやめたほうがいいと叔父から制限され、その通りだと思い距離を置いていた。

母の入院後、長年、小屋に追いやられてストレスで白米ばかり食べていた祖母も後を追うように重度の糖尿病と診断され入院。
なんと私は中学一年生で実家に一人暮らしになった🏠
そのとき、周りに相談できる大人や、楽しい世界を魅せてくれる大人がいればどんなに救われていただろうか。


数ヶ月の一人暮らしの後、病状の良くない祖母との2人暮らしが始まる。
その頃、絵に書いた優等生だった私の心は、既にボロボロだったんだろうと思う。
拒食症になり育ち盛りの中学3年間で7kg程痩せて30kg台のガリガリに。それでも太ってしまったら自分には価値がないと思い苦しかった。

また、全く自慢にもならないが母は優秀だったという。男尊女卑の強い時代に、進学校で成績優秀で東大の医学部を目指すよう先生から後押しされ、九大を出て東京の一流企業に就職したらしい。その血をひいてか私も成績は良く進学校に入学した。

しかし心の違和感はつのるばかり。
過食嘔吐や拒食を繰り返す。
うちは貧乏だから大学に進学できない、早く働かなくてはと思い込み、禁止のバイトに明けくれて、だんだん勉強する意味も見いだせなくなり。
週末はお酒を友達と飲んだり夜遊びばかりして停学になってばあちゃんを泣かせたり、他校からは優等生のレッテルを貼られたただの化粧の濃い小娘だった。

それでも進学は看護師になるためのエリートの専門学校を選択。理系で数三、数Cまで無駄に勉強していたので試験は楽勝だった。


看護師になろうと思ったのは、幼いころから祖父母や叔父に「これからの時代は女性は資格が大切だ」「人に役立つ仕事につくように」と言われていたこと。また家族や自分が経験している病気が何者なのか知りたかったから。

看護学生時代は勉強や実習やバイトと寝る暇もない大変な毎日だったけど充実していた。

この後、私は20歳で休学して、お水バイトで貯めた100万円を握りしめて世界一周の船に乗ったことをきっかけに一歩ずつ自分らしい人生を歩めるようになっていく。


そして看護師となり上京するが、挫折を経験。ただ、当時シェアハウスに住んでいた仲間に恵まれ、キッチンカー事業を24歳で立ち上げ、今に至る。

思えばこの頃の私は看護師として働くためには精神的に未熟で、心のコップはまだカラカラだった。摂食障害は徐々に軽快し、長女の妊娠を機に自然栽培や、オーガニック、パーマカルチャーの世界と出逢うことで食の本質に癒されて完治している。

今も食べるより作る方が好きだし、一日1食でも全然平気だし、昨今の健康ブームでプチ断食推奨説なんかもあって随分と生きやすくなった笑。
飲食店経営しているのに、おかしな話がたくさん。今やもう他人に話せない話はほぼない。

 

誰もがそれぞれの人生のストーリーを生きてきて今があるよね🍀
過渡期で生きづらい日本の今を共に生きるすべての人が支え合い、表現し、それぞれの幸せを見つけられますように。
そして、少しでもそのお手伝いができたら、私は幸せです✨

そのために、これからも心身共に癒され楽しめる居場所づくりの活動を続けていこうと思います。

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